姉埼神社について


  
<御祭神>
  志那斗弁命(しなとべのみこと)
  日本武尊(やまとたけるのみこと)
  天児屋根命(あめのこやねのみこと)
  塞三柱神(さえのみはしら) 
    八衢比古命(やちまたひこのみこと)
    八衢比売命(やちまたひめのみこと)
    久那斗命(くなどのみこと)     
  大雀命(おおさざきのみこと)(仁徳(にんとく)天皇)
  
<御祭事>
  元旦祭 ( 1月 1日)
  節分祭 ( 2月 3日)    
  夏季例祭( 7月20日)
  秋季例祭(10月20日)
  新嘗祭 (10月20日)
  月次祭 ( 毎月 1日)

<主な御祈願>
  家内安全、交通安全、厄除、初宮、安産、七五三
  工事安全、商売繁盛、良縁、病気平癒

<略記>
景行天皇40年(110)日本武尊(やまとたけるのみこと)御東征の時、走水(はしりみず)の海(浦賀水道)で嵐に遭い、お妃の弟橘姫(おとたちばなひめ)の犠牲によって無事上総の地に着かれた。
この宮山台において、お妃を偲び、かつ舟軍の航行安全を祈願し、風神志那斗弁命(しなとべのみこと)を祀ったのが創始と伝えられる。

その後父である景行天皇がこの地を訪れられて日本武尊命の霊を祀られ、さらにこの地を支配していた上海上の国造(かみつうなかみくにのみやっこ)が天児屋根命、塞三柱神(さえのみはしらのかみ)、大雀命(おおさざきのみこと)(16代仁徳天皇)を合祀されたといわれる。

御祭神のご神徳は姉埼神社への尊崇を高め、元慶(がんぎょう)元年(877)五月神階は正五位下勲五等、同年八七月正五位上を授けられる。延長5年(927)に纏(まと)められた延喜式神名帳にも上総国五社の一社として記載せられいわゆる式内社として有名になった。

天慶(てんぎょう)3年(940)朱雀(すざく)天皇の勅使から平将門追討の祈願により刀剣一振りが奉納され、現在も神宝として保管されている。


▲天慶三年奉納と伝えられる大太刀

治承4年(1180)源頼朝が房総の地から鎌倉への途次、社前で馬ぞろえをし、戦勝の祈願をしたことから爾来の秋の例祭には流鏑馬(やぶさめ)の神事が行われるようになった。

▲慶明治初期の流鏑馬の絵

慶長2年(1597)、および同6年に社殿を造営し、元和4年(1618)松平直政がこの地に封せられ神領三十五石を寄進した。明治6年(1873)木更津県が誕生するに及んで県社に列せられた。

<特殊神事>
神社では、古来以下の神事・行事が行われていたが、いずれも現在中絶されている。
1)、流鏑馬神事  源頼朝の馬ぞろえに端を発し、10月20日の秋季例祭時に行われていた。
2)、お田植祭  2月11日に行われていた。牛になぞらえた高麗犬(こまいぬ)を安置し「牛褒(ほ)め」の神事をおこなった。「目ヲ見テ候ヘバ、銅(あかがね)ノ鈴ヲ並ベタルガ如ク」などと牛の部位を次々と褒め、五穀豊穣などを願った。
3)、御筒粥(おんつつがゆ)  2月15日に行われていた。葦にて筒を9体作り、それらを米粉を煮た白粥の中に入れ置き、翌明け方にその筒中の粥の分量で年の豊凶を占うとされる。九種とは桑・蚕・麻・麦・小麦・早稲・晩稲・粟・大豆であり、農家ではそれを参考に農作したといわれている。
4)、獅子頭  夏季例大祭の渡御前に、子供たちが獅子頭を持ちその地域を清めて回っていた。「桃食って、コテーランネー」と家々を回ると、獅子の口におひねりを入れたという。昭和30年代まで続き、現在獅子頭は拝殿に3体並んでいる

▲桃食ってコテーランネーの絵
獅子頭
▲拝殿に置かれた獅子頭

<松の嫌いな明神様>
明神とは創祀も古く由緒正しい神社に対し平安以降に授けられた称号であり、この地域において明神とは姉埼神社を指す。
姉埼神社の主祭神の志那斗弁命(しなとべのみこと)は女神であり、夫神志那津彦命(しなつひこのみこと)(島穴神社の御祭神)の帰りを待ちわび「待つは憂(う)きものなり」と歎かれ同音の「松」を忌むようになったと伝えられる。
この姉崎(姉前)という地域名もこの伝承が語源ともいわれる。
境内は勿論、氏子地域では、1本の松樹を見ないこと事と合わせ、正月の門飾りには松の代わりに竹と榊(門榊(かどさかき))を用いている。また、新年の挨拶状、家具や服の模様などにも一切松を使用しない氏子もいる。

<境内及び近郊の古墳群>
姉埼神社は、東京湾を望む海抜約50メートルの宮山台にあり、JR姉ヶ崎駅から徒歩15分ほどの距離にある。境内の広さは約6、700坪を有し、杉や楠の高木と相まってその威容を顕現している。
姉崎地区には、4~6世紀に造られたとされる古墳群がある。境内には、一号(宮山古墳)、二号(白波塚古墳)、三号(浅間神社)の三基の円墳がある。
大型の古墳は前方後円型が多く、境内隣接地には4世紀後期に造られたと想定される全長約90メートルの「釈迦山(しゃかやま)古墳」があり、近郊には全長130メートルの天神山古墳、また鍵穴型の特徴を今に留める現存全長103メートルの二子山古墳をはじめ多くの古墳群を見ることができる。これらの古墳群は、当時上海上の国造(かみつうなかみくにのみやっこ)として勢力を持っていた忍立化多比命(おしたちけたひのみこと)およびその一族の墳墓と考えられている。